ぼちぼち、いきてゆく

思考の記録、アウトプットの練習をします。

アウトプット場所の移行

心機一転、場所を変えて

アウトプットの練習をしていきたいと思います。

 

【note】

https://note.com/_snnck

 

具体的な変更点はまだ決めかねていますが、

考えたこと・気づき以外にも、

要約の練習も兼ねて、使える情報(健康管理、障害関連など)も発信していきたいです。

 

一応お知らせでした。

「生きたくない」「消え失せたい」と生きていく

 このままでいいのだろうか。

 私はこのまま生きていていいのだろうか。生きても、生きても、このままの私でいてよいという実感が微塵も湧かないのだ。

 

 心の病と共に生きて早10年になる。

 10代の頃、初めて精神科に出向き「うつ病」と診断された。このとき、大きく安堵したことを今でも覚えている。原因不明の無気力や体の重さ・不自由さは「お前のせいではない」と許された気分だった。

 それから、なんだかんだで「双極性障害」という現在の診断に至る。この不自由さ、生きづらさがが私のせいではないということ、それには納得している。むしろ、そうでもしないと生きていけない。

 

 心が病みやすいばかりに、苦労はたくさんしてきた。と感じる。はた目から見ていれば、「甘え」「根性が足りん」などという意見もあるだろう。でも、どこまでいっても付きまとう「死にたさ」は、人間にまがいの不完全体にとって、文字通り死活問題なのだ。

 私は人間ではないと思う。そりゃあ、人間様にも悩みはあって、日々もがきながら生きてらっしゃる。でも、人間的にはきっと「辛い=死にたい」だ。でも私にとっては、そうではない。

友人や家族に囲まれ、良縁に恵まれ、愛する人に目いっぱい愛される生活を送り、どんなに幸せだと感じても、死にたいものは死にたいのだ。

幸福の中に「生きたい」と思う瞬間は生まれても、「死にたい」が消えうせてくれることはないのだ。きっと一生だ。

 私はこんなもんを背負って歩かねばならんのか。早くこんな体、手放してたいな。私に死ぬ勇気さえあれば。

 

 死ぬのは怖くない。でも、無駄に先回りして動くこの脳みそが、私の死後の世界を想像するのだ。

もし走る電車や車に突っ込めば、確実に死ねるだろう。でも、残された家族は、多額の賠償金に苦しむだろう。自分の育て方が悪かったと悔やみ続けるかもしれない。

もし思い付きで首をつって、遺書も残さずに死んだとする。家族や友人・恋人は「自分にできることはなかったのだろうか。あのときああしていれば止められたのでは」と憶測することしかできず、悔やみ続けるかもしれない。

 

…死ねない。自意識過剰な気もするけど。でも、なんとなく、そういう感じになる気がしてならないのだ。

 

そう思えば、私はもう、一人前の人間なのかもしれない。

いつも苦しくて死にたい。でも、自分を大事にしてくれる人間を悲しませたくない。でも、一刻も早くこの世から消えてしまいたい。でも、みんなを苦しませるようなことはしたくない。

結局自分の死にたいよりもそっちのが大事で。そんな矛盾だらけの感情なんて、すごく人間らしいじゃないか。

 

やっぱり、私も人間だ。

こんな出来損ないが生きていいかどうかは誰も教えてくれないし、例えば突然神様が現れて「生きてていいよ」なんて教えられたとしても、私は絶対納得しないだろうけど。今はなんとなく、ごたごた矛盾を並べながら、もう少しもがいてみてもいいかと思っている。

本当に好きなこと・やりたいことってなんだろう?

自分の好きなこと、やりたいことって何だろう。
 
やっていて本当に楽しいと感じることって何だろう。
 
心の底から大好きだと言える、考えるだけでワクワクするような。ふわふわした気分になれるような。
 
 
考えてみても、すぐには思いつきませんでした。
 
好きなものはたくさんあるはずなのに、「本当に、心の底から好きだと言えるか?」と改めて自分に問うてみると、「誰に何と言われようと好きだ!!」と即答できるものは一つもありませんでした。
 
 
私には、純粋に、ただ、『好きだ!やりたい!」と思えることは、本当にないのだろうか。
 
きっとそんなはずはないと、じっくり、今までの自分の「好き」や「やりたいからやったこと」を振り返ってみました。
 
 
子供の頃から絵を描いたり、手先を使ってモノを作ったりすることは進んでやっていたし、今も、絵やものづくりは気が向くとやったりします。
 
でも、「ただ好きだからやっているのでしょう?趣味でしょう?」と問われても、純粋に『はい、そうです」と答えられる自信は正直ありません。
 
「認められたい」「褒められたい」のような気持ちが少なからずあるからです。
 
でも、褒められたいくせに「下手なもの・中途半端なものをみられて、貶されたくない・下手だと思われたくない」と怖がって、自分で創作のハードルをあげて、そのせいで創作意欲はどんどん減るばかり…
 
 
あれ?私は何に縛られているんだろう。
 
それこそ創作なんて、ただ生み出す分には、限りなく自由なもののはずなのに。
 
 
今まで「なんだか難しい」と見上げていたハードルは、承認欲求や変なプライドから自分で作り上げた幻想だったのです。
 
いつのまにか、「人からどう見られるか」「損得」のような思考で、自分の好きや好奇心を覆い隠して、奥の方にぎゅうぎゅう詰め込んでしまっていたから、すぐに取り出せなかったようです。
 
 
私は今まで、気分の波に振り回されて、調子が悪くなるたびに出来ないことばかりがどんどん増えていく自分を見捨ててしまっていたのだと思います。
 
本当は好きなこともやってみたいこともたくさんあるのに、それらしい理由をつけては諦めて。
 
 
「やってみるには、なにからすればいいかな」「すぐに全部は出来ないけど、今できそうなことはあるかな」
 
そんな風に考えて ワクワクしていられたら、好きなものを遠ざけてしまわずにそばに置いて大事に出来たら、と思います。
 
 
 
この世には、数は少ないけれど、『やりたいこと・好きなことでお金をもらって生きている人』が、確かにいます。
 
そういう人たちを表すときには、よく「天才」とか「天職」なんて類の言葉が使われるけれど、きっと”生まれ持ったもの”や”好き”だけでは続けていくのは難しくて、計り知れないような努力をし続けられる人だけが、そういう生き方をしていけるんだと思っています。
 
そういう人たちのようにとまではいかなくとも、これからは、自分の「好き!」「面白い!」「やりたい!」をちゃんと受け止めて、なんでもかんでもすぐ諦めず、出来るだけ叶えてあげられるよう努めたいです。
 
 
 

好きな人、嫌いな人

 嫌いな人とは、そりゃ出来れば一緒に過ごしたくない。出来るだけ多くの時間を、好きな人と一緒に過ごしたい。なんなら、好きな人とだけ関わって生きていきたい。


 でも、そんなのは普通に考えて無理だ。事情があって長く一緒にいなきゃならないなんてことは多々ある。クラスメイトだからとか、同僚だからとか、腐れ縁だからとか、家族だからとか。理由はそれぞれに、いくらでもある。


「そんななかでも出来るだけ心地よく過ごすために」って、「"好きな人"と過ごすために」って理由で、自分が感じた違和感だったりモヤモヤなんかを全部なかったことにして、自分のなかで「嫌いな人」を「好きな人」に変えてしまうための努力してしまうことは、

きっといつか、フタをされて逃げ場のなくなった負の感情が、忘れた頃に突然爆発したり、溢れて止まらなくなったりしてしまうような、そんな危険を伴うと思う。

 
 できることなら、「嫌い」とか「苦手」とか、そういう気持ちもそのまんま受け止めて、その上で、気長に「いつか、好きになれそうなところとか、許せる理由とか、そういうのが見つかればいいよなぁ」くらいの気持ちで、ゆるくのんびり、探したり探さなかったり、していければいいと思う。


 逆に、好きな人や素敵だと思う人、尊敬できる人だったりとは、できるだけ難しいことは考えず、【好きだから】ただそれだけで、一緒にいられたらいいと思う。

分かち合うことを諦めない

私は昔から、人が完全に分かり合うのは(例え家族や長年の付き合いでも)不可能だと思っていて、前まではそれはとても悲しいことだと思っていました。

私の本当の悲しみや苦しさは私にしかわからないし、私の幸せは私のもの。あの子のだって、家族のだってそう。「他人の悲しみや幸せを理解しあえないのは当たり前で、人間はどこまでも孤独だ」と。

 

でも、今は少し考えが変わりました。
少なくとも“悲しいこと”だとは思わなくなりました。

分かり合うことが難しいからこそ、
同じものを食べて「おいしいね、幸せだね」と笑い合えたり、大切だと思える人が泣きながら吐き出したつらさを一緒に泣いて悲しんだりする【感情が重なる瞬間】は尊いし、自分だけのものだった感情を分かち合う作業を諦めないことで生まれるものはたくさんあるし、だからこそ人と関わることを諦めたくないなと今は思っています。

 
誰かが差し伸べてくれる手を「迷惑がかかるから申し訳無い」と振りほどくのか、相手を信じ「ありがとう」と素直に感謝して掴むのか。

 

以前の私は前者だったと思います。
とにかく人に迷惑をかけてしまうのが嫌で、迷惑をかけてしまう自分がもっともっと嫌で、「迷惑がかかるくらいなら関わらない方が」とか「私がいるだけでみんなの迷惑になるんだ」みたいに考えがちでした。(今もときより考えますが…)

でも、生きてるだけで迷惑なら、どうせ迷惑をかけてしまうのなら、目一杯、誠意をもって感謝して「この恩は元気になったらいつか絶対に返すよ!」って言ってるくらいの方が絶対いいな!と最近は思うようになりました。

 

私は、人間関係は“縁”と“タイミング”だと思っているので、どれだけ好き同士でもお互いの人生や感情のタイミングがズレて離れることになったり、逆にいろんなタイミングが重なって素敵なご縁がつながったり。

今、こんな情けない私にも、苦しいときつらいときに手を差し伸べてくれる人たちがいて、それは本当に有難いことで。縁があるってことで。それは紛れもない事実で。

もしかしたら、今後私の不甲斐なさに呆れたり、それぞれの人生のタイミングがズレて、離れてしまうことになるかもしれないけど、私は『今』を大事にしたい。

今、私には、手を差し伸べてくれる人たちがいて、
私だって、もしその人たちが困っていたら、一緒に悩みたいし、悲しくて泣いてたら一緒に泣きたいし、一緒にたくさんたくさん笑いたい。

 

分かり合うことができなくても、“相手を知りたい”と思うことや“伝えたい”っていう気持ちを諦めずに、大切な人たちのことも、大切な人たちが大事に思ってくれる私のことも、大切にしていきたいです。