ぼちぼち、いきてゆく

思考の記録、アウトプットの練習をします。

「生きたくない」「消え失せたい」と生きていく

 このままでいいのだろうか。

 私はこのまま生きていていいのだろうか。生きても、生きても、このままの私でいてよいという実感が微塵も湧かないのだ。

 

 心の病と共に生きて早10年になる。

 10代の頃、初めて精神科に出向き「うつ病」と診断された。このとき、大きく安堵したことを今でも覚えている。原因不明の無気力や体の重さ・不自由さは「お前のせいではない」と許された気分だった。

 それから、なんだかんだで「双極性障害」という現在の診断に至る。この不自由さ、生きづらさがが私のせいではないということ、それには納得している。むしろ、そうでもしないと生きていけない。

 

 心が病みやすいばかりに、苦労はたくさんしてきた。と感じる。はた目から見ていれば、「甘え」「根性が足りん」などという意見もあるだろう。でも、どこまでいっても付きまとう「死にたさ」は、人間にまがいの不完全体にとって、文字通り死活問題なのだ。

 私は人間ではないと思う。そりゃあ、人間様にも悩みはあって、日々もがきながら生きてらっしゃる。でも、人間的にはきっと「辛い=死にたい」だ。でも私にとっては、そうではない。

友人や家族に囲まれ、良縁に恵まれ、愛する人に目いっぱい愛される生活を送り、どんなに幸せだと感じても、死にたいものは死にたいのだ。

幸福の中に「生きたい」と思う瞬間は生まれても、「死にたい」が消えうせてくれることはないのだ。きっと一生だ。

 私はこんなもんを背負って歩かねばならんのか。早くこんな体、手放してたいな。私に死ぬ勇気さえあれば。

 

 死ぬのは怖くない。でも、無駄に先回りして動くこの脳みそが、私の死後の世界を想像するのだ。

もし走る電車や車に突っ込めば、確実に死ねるだろう。でも、残された家族は、多額の賠償金に苦しむだろう。自分の育て方が悪かったと悔やみ続けるかもしれない。

もし思い付きで首をつって、遺書も残さずに死んだとする。家族や友人・恋人は「自分にできることはなかったのだろうか。あのときああしていれば止められたのでは」と憶測することしかできず、悔やみ続けるかもしれない。

 

…死ねない。自意識過剰な気もするけど。でも、なんとなく、そういう感じになる気がしてならないのだ。

 

そう思えば、私はもう、一人前の人間なのかもしれない。

いつも苦しくて死にたい。でも、自分を大事にしてくれる人間を悲しませたくない。でも、一刻も早くこの世から消えてしまいたい。でも、みんなを苦しませるようなことはしたくない。

結局自分の死にたいよりもそっちのが大事で。そんな矛盾だらけの感情なんて、すごく人間らしいじゃないか。

 

やっぱり、私も人間だ。

こんな出来損ないが生きていいかどうかは誰も教えてくれないし、例えば突然神様が現れて「生きてていいよ」なんて教えられたとしても、私は絶対納得しないだろうけど。今はなんとなく、ごたごた矛盾を並べながら、もう少しもがいてみてもいいかと思っている。