ぼちぼち、いきてゆく

思考の記録、アウトプットの練習をします。

伝えること、伝わること

ただの外出をするにも

『覚悟』と『勇気』

が必要な私からすれば、外に連れ出してくれる、遊びに誘ってくれる友人たちは、外に出る"きっかけ"をくれる貴重な存在だ。

だから私は、「忙しいにも関わらずせっかく"きっかけ"をくれているのだから、断るのは失礼だし、もったいない」と考えて、今まで、友人たちからの遊びの誘いを断ることを極力しなかった。

もちろん友人たちのことは大好きだし、誘ってくれたり、気にかけてくれることにも感謝している。

でも、

遊びの誘いを毎回断らずにいれば、当たり前にお金だってどんどん減っていくし、

何より、同世代の友人たちの仕事や恋愛話などを聞くことは、正直つらかった。

どうしても

【立派に働いたり素敵な人と結ばれたり結ばれなかったり、悩みながらも健康に毎日を過ごし人生を謳歌する友人たち】

【この年齢で何も持っていないし何もできない無能な自分】

を比べ、自分の不甲斐なさに毎回落ち込んで。


毎度、友人たちの金銭感覚に合わせた私からすれば高級な食事などをすることで、どんどん減っていくお金。

お金が減っていくと同時に、なんとなく心も擦り減って。家へ帰る頃には毎回ヘトヘトで。


このままでは私自身も、友人たちとの関係もダメになると思い、友人たちに思い切って伝えることにした。

「今後しばらくは遊びに行ったりは控えて、一人で頑張ってみるよ」というようなことを理由とともに伝えてみると、

友人たちは「話してくれてありがとう」「今まで我慢させてごめんね」とまで言ってくれた。



私は今まで、いわゆる"健常者"の友人や家族に、私の抱える病のことについても、私自身のことも【理解】を求めようとはしなかった。

諦めていた、というより「理解されなくて当たり前」と考えていたからだ。

「理解なんてどうせできないのだから、しようとなんてしなくていいから。そっとしておいてくれ」と思っていた。



《知らない》は、多くの、必要のない恐怖や不安、心配などを生む。


人の気持ちは目に見えない。

"態度で示す"なんて言葉や、"察する" "空気を読む"なんて言葉はあるけれど、その態度から察する人の気持ちは、本物なのだろうか。察したつもり、になっていないだろうか。

私は、本物の気持ちや考えを、大事な人達に伝えられているのだろうか。

ましてや、もし相手が、もし知ろう、理解しようとしてくれているのなら、私には【伝える義務】があるのではないか。


たとえ長い時間を一緒に過ごしてきたとしても、それでもまだ伝えなきゃ伝わらないことが確かにある。

大事な人と、一緒にいると決意するにしても、少し距離を置くにしても、伝える努力をしてからでも遅くはないのかもしれない。