ネガティブでもいい!
『ポジティブこそ正義。ネガティブは悪』みたいな考え方が当たり前に広がってて、落ち込んで悩んだり休んでいると、その間ずっと「元気だしなよ!」「早く元気になってね!」と言われ続ける世の中に、ふと疑問を感じたり、疲れるなぁと思うことがある。
そもそも、ネガティブってそんなに悪いことなのだろうか?
下を向いて考えたり悩んだりする間にだって、得られるものはたくさんあると思う。
悩んだり迷ったり休んだりする時間があってもいいし、むしろそういう"過程"の時間の方が、生きていく上で"結果"より大事だったりすることもあるんじゃないのかな?
ずっとポジティブでいられる人のことは、純粋に「すごい!」って思うし、"逆境にも負けない!明るくキラキラな人生"もそれはそれでとても素敵だと思うし憧れるけど、やっぱり私は、悩んだり戸惑ったりしながらも生きているような人の方が、人間らしくて好きだなぁと思う。
これからも、自分や世間の"ポジティブこそ正義"論をもって、少し口数が減っただけで「元気ないよね?大丈夫?」と声をかけてきたり、何かに悩んだり疲れて休んでいると「はやく元気になって!」「あなたらしく元気でいて!」と言ってくる人は(悪意の人、善意の人どちらも)たくさんいるだろうけど、
落ち込んだって、下を向いて立ち止まったっていいじゃないか!
生きてりゃ誰だって、元気がない日くらいある!
悩みを解決するペースや方法は人それぞれだし、生きてる間ずっと悩み続けるのだっていい。
「もう全部疲れたなぁ、休もう」って、その休む期間だって、誰にも急かされる義理なんてないです!
今までの私は、"誰かに嫌われないように"とか"世間に認めてもらえるように"とか、そういう誰がつくり上げたかもわからない『普通』に縛られた生き方をずっとしてきたように思う。
でも改めてこれからは、私は私の人生を、私のペースで、時には立ち止まって下を向いたりして、戸惑って悩んで迷って、全部嫌になったり、もがいたりしながらも、なんとか生きていけたらと思いました。
親友について考えてみたら
先日、久しぶりに幼馴染の親友と連絡をとって、改めて、その親友と私の関係について考えてみて思ったことです。
私には、いつ連絡しても必ず返事をくれて、調子が良いと伝えれば「元気そうで嬉しいです」、調子が悪いと伝えれば「ぼちぼちいこうね」と返してくれる親友がいる。
いつも、私が気まぐれに自分が寂しいときに連絡をして、親友はそれに返事をくれ、少し会話をする。で、なんとなく終わって、また私が気まぐれに〜という流れ。
今は住んでいる場所もかなり離れていて、もう何年も会っていない。電話もしない。それでも、私たちの関係は変わらない。ずっと、幼馴染なのにメールやLINE上ではお互い敬語だし、誕生日のプレゼントだってお互いに毎年贈ったり贈らなかったりだ。
今まで、私が都合の良いときにだけ連絡をして、こんなのを友達と言えるのか、寂しさを紛らわすために親友を利用しているだけではないかと、少し罪悪感を感じることもあった。
でも、前回の会話からどれだけ期間があいても「お久しぶりです。いかがお過ごしですか?」と送れば、親友はいつだって変わらず「お久しぶりです、こちらは〜」と返してくれる。
遠くにいて全然会えないし、頻繁に連絡を取り合うわけじゃない。でも、テレビで全国の天気予報が流れば、自分のと一緒に親友の住む地域まで確認して、「あっちは天気良くないみたいだなぁ」とか「あの子は今頃どうしているかなぁ」だとか、なんとなーくあの子のことを考える。
数年前までの私は、ずっと「生きていくなら何か大きいことを成し得なければならない!でないと生きる意味がない!」「早く人生の遅れを取り戻さなければ!」などという"価値観の重り"をなぜか手放せずにいて、
その重りを引きずりながら「ただ歩いているだけなのに、なんでこんなに体が重いのかなぁ。何も持ってないのになぁ」と思いながら生きていたように思う。
でも、私は"ないもの"ではなくて"今目の前にあるもの"に目を向けることで、重りの存在に気付き、それを置いていくことにした。
それと同時に、「私は私の人生を生きるので、他の人も勝手にしてください」「私とあなたは別の人で、私の幸せとあなたの幸せも違います」というような考えを価値観のレパートリーに増やした。すると、体が軽くなった気がした。
今はもう、ドラマチックな大恋愛や、なんかものすごく奇跡的な出来事なんか起こらなくても、
”私の連絡を楽しみに待っている人がいる”
それだけで生きていけるような気がしている。
とんでもなくどうしようもなくこの世から消えてしまいたくなるときがあるけれど、親友と一緒に美味しいものを食べて「おいしいね」「そうやね、おいしいね」と笑い合うまでは、どうにか生きなきゃならないなぁと思った。
脳内反省会
誰か(特に初対面やそれに近い人)と関わると、そのあと私の脳内では【反省会】が繰り広げられる。
「あのときもっとこう言えば、もっとちゃんと伝わったのかな…」
「あれは言うべきじゃなかったかな…」
「あのときちゃんと笑えなかったかも。冷たく感じさせただろうか…」
みたいなのが頭のなかをぐるぐる。
どうせ関わるなら、お互い気持ちよく過ごしたい。
できるだけ誤解など生まれたりしないよう、目の前の人とちゃんと向き合いたい。それだけ。
でも、その"それだけ"が難しい。
で、毎回反省会がはじまって、自己嫌悪。
でも、【反省会】なんだから、良くなかった点をあれやこれやと思い浮かべて終わるのではなく、改善点もあげていくべきだな、と思った。
「うまく笑えなくて冷たく感じさせたかもしれない」なら、次あったときは笑顔で、いつもより明るく挨拶してみよう。
「あれは言うべきじゃなかったかな」と思ったなら、次話すときは話す前に一呼吸おいてから。簡潔に、無駄な言葉を削ぎ落とすイメージで話してみよう。
自分なりの工夫を凝らして、毎回自分をアップデートしていくイメージ。
自分に期待しすぎだったのかもしれない。
私はコミュニケーションが下手だ!
だから、考え方や表情や目線の配り方など、いろんな工夫をする。人よりできないなら、人より考えてみる。
私は私をバージョンアップさせていく!
今は人より不具合も多いけれど、それとちゃんと向き合って、時にはテキトーに、少しずつ良くしていきます。
私の人生を例えるなら
できないことを無理にやろうとしたり、欲ばって同時にいろんなことをやろうとしたりすると、エンストして転げ落ちる。
すると、せっかく増えてきた"できること"たちも、あっという間に手のひらからこぼれ落ちて、また"できないこと"へ逆戻り。
それを、ひとつずつ拾い集めながらまた昇っていくけど、途方もない地道な作業にうんざりして立ち止ってしまったり、そのうちまたエンストして転げ落ちたり。そんなことの繰り返し。
なら、次拾い集めるときは、転げ落ちてもこぼれないように工夫してみよう!大きな袋を用意して詰めてみようか?
またきっと、その袋も弱っちいから、破れてボロボロ中身がこぼれ落ちたりする。
でも、
ツギハギだらけでも、一歩進んで二歩下がりながらでも、『次はどんな工夫をしてみよう』そんな風に考えられたらいい。
伝えること、伝わること
ただの外出をするにも
『覚悟』と『勇気』
が必要な私からすれば、外に連れ出してくれる、遊びに誘ってくれる友人たちは、外に出る"きっかけ"をくれる貴重な存在だ。
だから私は、「忙しいにも関わらずせっかく"きっかけ"をくれているのだから、断るのは失礼だし、もったいない」と考えて、今まで、友人たちからの遊びの誘いを断ることを極力しなかった。
もちろん友人たちのことは大好きだし、誘ってくれたり、気にかけてくれることにも感謝している。
でも、
遊びの誘いを毎回断らずにいれば、当たり前にお金だってどんどん減っていくし、
何より、同世代の友人たちの仕事や恋愛話などを聞くことは、正直つらかった。
どうしても
【立派に働いたり素敵な人と結ばれたり結ばれなかったり、悩みながらも健康に毎日を過ごし人生を謳歌する友人たち】
と
【この年齢で何も持っていないし何もできない無能な自分】
を比べ、自分の不甲斐なさに毎回落ち込んで。
毎度、友人たちの金銭感覚に合わせた私からすれば高級な食事などをすることで、どんどん減っていくお金。
お金が減っていくと同時に、なんとなく心も擦り減って。家へ帰る頃には毎回ヘトヘトで。
このままでは私自身も、友人たちとの関係もダメになると思い、友人たちに思い切って伝えることにした。
「今後しばらくは遊びに行ったりは控えて、一人で頑張ってみるよ」というようなことを理由とともに伝えてみると、
友人たちは「話してくれてありがとう」「今まで我慢させてごめんね」とまで言ってくれた。
私は今まで、いわゆる"健常者"の友人や家族に、私の抱える病のことについても、私自身のことも【理解】を求めようとはしなかった。
諦めていた、というより「理解されなくて当たり前」と考えていたからだ。
「理解なんてどうせできないのだから、しようとなんてしなくていいから。そっとしておいてくれ」と思っていた。
《知らない》は、多くの、必要のない恐怖や不安、心配などを生む。
人の気持ちは目に見えない。
"態度で示す"なんて言葉や、"察する" "空気を読む"なんて言葉はあるけれど、その態度から察する人の気持ちは、本物なのだろうか。察したつもり、になっていないだろうか。
私は、本物の気持ちや考えを、大事な人達に伝えられているのだろうか。
ましてや、もし相手が、もし知ろう、理解しようとしてくれているのなら、私には【伝える義務】があるのではないか。
たとえ長い時間を一緒に過ごしてきたとしても、それでもまだ伝えなきゃ伝わらないことが確かにある。
大事な人と、一緒にいると決意するにしても、少し距離を置くにしても、伝える努力をしてからでも遅くはないのかもしれない。