ぼちぼち、いきてゆく

思考の記録、アウトプットの練習をします。

親友について考えてみたら

先日、久しぶりに幼馴染の親友と連絡をとって、改めて、その親友と私の関係について考えてみて思ったことです。


私には、いつ連絡しても必ず返事をくれて、調子が良いと伝えれば「元気そうで嬉しいです」、調子が悪いと伝えれば「ぼちぼちいこうね」と返してくれる親友がいる。

 

いつも、私が気まぐれに自分が寂しいときに連絡をして、親友はそれに返事をくれ、少し会話をする。で、なんとなく終わって、また私が気まぐれに〜という流れ。

今は住んでいる場所もかなり離れていて、もう何年も会っていない。電話もしない。それでも、私たちの関係は変わらない。ずっと、幼馴染なのにメールやLINE上ではお互い敬語だし、誕生日のプレゼントだってお互いに毎年贈ったり贈らなかったりだ。


今まで、私が都合の良いときにだけ連絡をして、こんなのを友達と言えるのか、寂しさを紛らわすために親友を利用しているだけではないかと、少し罪悪感を感じることもあった。

でも、前回の会話からどれだけ期間があいても「お久しぶりです。いかがお過ごしですか?」と送れば、親友はいつだって変わらず「お久しぶりです、こちらは〜」と返してくれる。

遠くにいて全然会えないし、頻繁に連絡を取り合うわけじゃない。でも、テレビで全国の天気予報が流れば、自分のと一緒に親友の住む地域まで確認して、「あっちは天気良くないみたいだなぁ」とか「あの子は今頃どうしているかなぁ」だとか、なんとなーくあの子のことを考える。


数年前までの私は、ずっと「生きていくなら何か大きいことを成し得なければならない!でないと生きる意味がない!」「早く人生の遅れを取り戻さなければ!」などという"価値観の重り"をなぜか手放せずにいて、

その重りを引きずりながら「ただ歩いているだけなのに、なんでこんなに体が重いのかなぁ。何も持ってないのになぁ」と思いながら生きていたように思う。

 

でも、私は"ないもの"ではなくて"今目の前にあるもの"に目を向けることで、重りの存在に気付き、それを置いていくことにした。
それと同時に、「私は私の人生を生きるので、他の人も勝手にしてください」「私とあなたは別の人で、私の幸せとあなたの幸せも違います」というような考えを価値観のレパートリーに増やした。すると、体が軽くなった気がした。


今はもう、ドラマチックな大恋愛や、なんかものすごく奇跡的な出来事なんか起こらなくても、

”私の連絡を楽しみに待っている人がいる”
それだけで生きていけるような気がしている。

 

とんでもなくどうしようもなくこの世から消えてしまいたくなるときがあるけれど、親友と一緒に美味しいものを食べて「おいしいね」「そうやね、おいしいね」と笑い合うまでは、どうにか生きなきゃならないなぁと思った。